ダリフラ最終回への雑感 -ダーリン・イン・ザ・フランキスはセカイ系だったのか?-

1.要点

ダーリン・イン・ザ・フランキスを最終回まで見たが正直面白くなかった。何故面白く感じなかったのか?(正直、脚本構成諸々色んな要素で問題要素があったのだが、そこは触れない)

ダリフラの作品コンセプトとしてパッとイメージされるのは「セカイ系」だが、思春期男女の「群像劇」も同時にコンセプトに組み込まれている。

セカイ系」と「青春群像劇」はクッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッソ相性が悪い、と思ったので、それについて書く。

 

2.注意

ネタバレっぽい事も書きます。

ダリフラを見返して詳細に分析するの苦痛なので雰囲気で全部書きます、あんまり真面目に読まないで欲しい。

セカイ系」と「群像劇」というワードを用いて書きます。

セカイ系」はエヴァなるたる、ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ、最終兵器彼女などの"君と僕"の関係や物語が社会や他の人間関係を介さず、世界の顛末に直結する、一般的な「セカイ系」のイメージ。

「群像劇」は大分ざっくりしているけど、主人公以外の人物にも焦点を当てて人間関係や恋愛と言った機微を重視して物語が展開していくモノをイメージしています。とらドラ3月のライオンP.A.WORKSのお仕事シリーズなどが僕の見たことある作品の中からのイメージです。

 

以下、本編。

 

3.セカイ系ダリフラ

ダリフラはTRIGGERとA-1 Pictures共同制作で、TRIGGERはエヴァを作ったガイナックスのスタッフが独立した会社である。そのため、ダリフラにもガイナックス系アニメからの影響やオマージュが随所に見受けられる。

セリフ回しや設定がまんまエヴァからの引用だったりもする。ゼーレとエイプのセカイを操る陰謀組織という構図が一緒だったり、宇宙に飛び出し地球外生命体と戦うのはトップをねらえ!が元にある。戦いの規模がクソデカくなっていくのはお家芸である。ここら辺の元ネタ、オマージュは挙げたらキリがない。

それらオマージュ元の一つ、新世紀エヴァンゲリオンは何と言っても「セカイ系」の代表格である。

エヴァがシンジくん(僕)とヒロイン(君)の、閉じたセカイ、狭い物語を中心としているのと同様に、ダリフラでは主人公のヒロとヒロインのゼロツーの関係性がメインの物語を形作っていく。最終回でヒロとゼロツーは仲間たちと別れ宇宙を旅し戦い、敵と相討ちになる。客観的に見れば「世界を救ったかわりに主人公達が命を落としたバッドエンド」だが、「ヒロとゼロツーが互いを愛し合い敵を倒した」という二人の閉じた主観としてなら、まぎれも無いハッピーエンドと見れる。

あくまで、”君と僕”の閉じた世界の中での物語を問うのがセカイ系的な見方である。これが「セカイ系」としてのダリフラの見方になる。

 

4.群像劇のダリフラ

A-1 Picturesという会社の作風を僕はあんまり把握できていないが、ダリフラに強い違和感があるのはこちらの要素がセカイ系と相性が悪かったからだと推測している(逆の言い方もできる。A-1 Picturesの作風にセカイ系は相性が悪い。)

ダリフラは、一般的なセカイ系と言われる上記3の作風に加え、ゼロツーとヒロ以外の登場人物の恋愛感情、共同生活内での人間関係を掘り込んで描かれていた。イチゴのヒロへの恋愛感情(青髪負けヒロインの正史が更新され、その点は本当に良かった)、ココロの心の揺らぎ(絶対脚本家は悪意がある、おやじギャグをやめろ)、出産、フトシのネトラレ、不憫なゴロー(イチゴは負けヒロインだがゴローは何と呼べばいいんだろう、負け竿役?)、イクノの性的少数者的視点(イクノのエピソードが作中で深く扱われず軽く流されている様に思われるのは無意識な差別なのか、炎上しないようビビったのか…)、etc…

こういった作風を何と呼べばいいのか正確には分からないが、思春期男女の群像劇という認識で大体あってると思う。これら「群像劇」は、「セカイ系」では敢えて深く描かれない他者、社会との関係性がピックアップされる。作品を捉える際の視点に、大きく他者とその関係性が介入されるのである。

さて、一つの作品に「"君と僕"の閉じた視点」と「他者との関わりを広く持った客観的な視点」との両方を取り入れるとどうなるのか?それは最終回を見たとおり、シラけるのである。

 

5.「セカイ系」視点からの群像

セカイ系は究極的には世界が滅んでも構わない。あくまで“君と僕”の問題が全てになる。ヒロとゼロツーが互いに愛し合い、共に溶け合って敵を打ち倒そうとしたという事実がある時点で、セカイ系としてはハッピーエンドになる。もし最終回で二人が死んだ後、残党のビルムが地球を滅ぼしたとしても、セカイ系的な視点では二人のハッピーエンドは揺るがないのである。

セカイ系の視点でダリフラ最終回を見るとき、一番気になったのが、ビルムに最後の攻撃をし、二人が消えていくという独白のシーンで、ヒロが「歩んできたこの道は消えない。皆が繋いでくれるから」というセリフである。このセリフは、セカイ系の視点から見ると、”君と僕”との物語のいよいよ最後、愛し合う二人の終わりというクライマックスで、「君と僕の閉じた世界での完結したハッピーエンド」ではなく、「他者の存在による二人の価値の担保」を口走っているのである。これはセカイ系セカイ系たる約束を破ってしまっている。自分達の物語の価値を自分たち以外に仮託してしまっている。このセリフを吐いた時点で、ヒロはセカイ系の”僕”である資格を失ってしまっているのである。そういった意味ではチームの仲間を眼中に入れず、自分とダーリンの関係性のみを重視していたゼロツーこそセカイ系の”僕”たる資格がある。ナヨナヨしてないしヒロインなのでイメージと逆行しているが、実は制作者側の意図としては、セカイ系の視点での”僕”はゼロツーとして設定しているがゆえに、一人称も「僕」なのかもしれない。

他にもセカイ系視点で見ればヒロとゼロツーが消えた後の地球でのエピローグは、セカイ系の視点からは全くの蛇足であるし、様々な部分でセカイ系としてダリフラを見るには、あまりにも他者が入り込み過ぎてしまっている。これでは視聴者が”君と僕”のセカイに没入して見ようとしても、ある種の外部からの視点がチラチラと入り込んで、結果としてシラけてしまう。

セカイ系は閉じた自己認識のセカイを描けばそれだけ強度が高くなるから、他者の多く入り込んだダリフラセカイ系としての強度が弱くなってしまっているのだ。

 

6.「群像」からの”君と僕”

今度はイチゴやココロと言った群像側から最終回を見る。ビルムにやられ、危機に陥ったストレリチア真・アパスを救ったのは何か?それはなんと”地球からの祈り”だった。地球からの祈りを受けて二人は覚醒し、ビルムを屠るのであった。(このシーンは本当に共感性羞恥を誘って死ぬかと思った)

このシーンが「セカイ系」と「群像劇」の相性の悪さを端的に物語っているように思える。”君と僕”という閉じたセカイの二人の戦いに、イチゴやココロの地球で待つ他者たちをどう関わらせようか、製作者たちはアレコレ考えたのだと思う。しかし、いい案が出ず、苦肉の策として「地球からの祈りが届き二人を救う」なんて薄ら寒い奇跡を起こさせてしまったのである。

主人公とヒロインというセカイ系物語の主軸が宇宙へ旅立ち残された群像を、一方でダリフラが「群像劇」として描いていたがゆえに、両者の物語が途中で分断されないように、もう一方の”主役”として最後の戦いに関わらせなければいけなかった。しかし、”君と僕”が閉じたセカイで戦っているその構造のために容易に群像は関われない。その苦肉の策で「祈り」が二人を救う結果になった。この無理矢理な他者の介入は”君と僕”の物語の強度を著しく下げたし、群像の戦いへの関わり方としても滑稽でシュールだ。

物語のクライマックスの戦いが”君と僕”によってのみ行われるという脚本を書いた時点で、「群像劇の主人公」たちは構造的に非主人公に堕落させられてしまうのである。

 

7.まとめ

再三書いたように「セカイ系」は君と僕という閉じたセカイでの物語を突き詰めるほど強度が増していく。逆に「群像劇」は広く人間関係と他者の掘り下げをしないといけない。”君と僕”以外の他者を掘りさげれば掘り下げるほど、"君と僕"のセカイの強度は下がっていく。さらに二つの視点が混合されるせいで視聴者が没入できずシラける。ダリフラはストーリーの前半はヒロとゼロツーのセカイ、その他の群像であるキャラ達の関係と心理を掘りさげ、そのどちらをも主人公として描けていたが、最終回付近のクライマックスにおいて両立が(構造的な部分が多くを占める形で)出来ず、破綻してしまったと考えられる。

 

8.補足、ダリフラと「私を離さないで」

ダリフラ最終回のサブタイトルは、カズオイシグロの小説「私を離さないで」から取られている。(ガイナックスの作品はSF小説のタイトルを最終回のサブタイトルに付ける慣例がある)

この小説は、臓器提供用のクローンとして作られた少年少女達が、大人達に管理された施設内という閉じたコミュニティでの恋愛や葛藤など、人間関係を主軸に描いた作品で、最終的には臓器提供によって死ぬしかない、臓器提供の猶予を求めてもそれは認められず、決められた規範から逃れられない(ダリフラで言う「パパの言う事は絶対」)など、共通点が多い。

僕は「私を離さないで」を5年くらい前に読んだ。詳細はもう覚えてないが、ダリフラと比較してより「セカイ」の強度があるのは「私を離さないで」だと思う。

「私を離さないで」は主人公の「私」からだけの視点で物語が描かれていた。たとえ小説の内容が閉じたコミュニティでの少年少女達の人間関係だとしても、その語り部は”私”であり、私の自己意識によるセカイが一貫して描かれているからである。アニメであるダリフラを僕達視聴者が見るとき、それはある空想のカメラからダリフラの世界を映して観ている事になる。だからこそ小説よりも世界を捉える"視点"をどう統一させるかが重要になるのである。もしダリフラを小説にしたら、語り部は1章ごとにヒロになったりココロになったりイチゴになったりコロコロ変わり、読者はどの視点から一つの小説を読解すればいいか混乱するだろう。しかも、最後の章は全員が全員の視点からそれぞれの主観の視点でクライマックスを迎えるよう同時並行で書かないといけないのである。脚本の時点ではあくまで一点の"僕"から見たセカイとして、ダリフラの物語を書いたのかもしれないが、アニメというメディアでは、あまりにも”僕”が拡散されてしまっていたのがとても残念だ。

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

ssgvぢゅ

・ジャブジャブと泥で顔を洗ったらとてもスッキリして、色眼鏡とか偏見とか人権とかぬくもりがゴッソリ取れた。心身をリフレッシュさせてこれからも社会(じごく、とよむらしい)に出勤しよう。

 

・滑らかな青酸カリはしゃっきりポンと人生を終わらせてくれる最高の食材。魯山人も絶賛している。

 

・8カ月ぶりにメンクリに行ったらカウンセリングの心理士に「よく半年以上持たせられましたね!」という斜め横からの褒められ方をして気が狂ってしまった。予約をすっぽかしカウンセリングと投薬を放棄した人間は小言の一言でも言われ窘められるのが当然だろうという気持ちでメンクリに行ったので、もしカウンセラーは患者を否定してはいけない的なマニュアルがあったとしても認知が歪みそうで面白かった。

コンサータマイスリーだけを貰い、カウンセラーと雑談をするだけの施設なので精神的な負担は無いが、なんせADHDで先延ばし癖と不安癖が強く、一回サボったら再度行くのに8カ月もかかってしまう。社会できない。

 

・現実世界の知り合いよりフォロアーとの方が倍以上ラインや通話をしている。ラインが苦手なんじゃなくて今所属しているソーシャルとのコミュニケーションが苦手なだけなのかもしれん。または現実が苦手。

 

・トロットロのトロ以外全部が乗った寿司

 

 

・わかる

 

・ゆれる。ナンバーガールから始まるポスト・ナンバーガールの系譜で、ボーカルのメロディセンスと曲の勢いの強さが高得点である。ハヌマーンとかが好きならなおさらオススメ。下に張ったアルバムがとても良かったのでぜひ1曲だけじゃなくアルバム通して聴いてみて欲しい。

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これはナンバガの「鉄風鋭くなって」のカバーです。良い。

 

 

元曲です

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mutilations+

distractions+

なにもwkrn

・得体のしれない夏が男性を迸らせていたら、まあなんて破廉恥なんでしょう、と冬が窘めていた。それをみた秋がつばを吐き捨てる、どうやら秋は酷く四季を嫌悪しているみたいだ。春はというと、一人暁を覚えておらず、オーストラリアでは全てが反転している。最高の南半球にしような、俺も頑張るからさ。女性はニッコリとうなずいた。

 

美味しんぼを連続で60巻位読んでいたら気が狂い、自律神経は失調し、海原雄山のように総髪の獅子になってしまった。

獅子なので動物園に入れられたが、そこで出される生肉はひどい品質で食べられたものではない。みるみる内に痩せ衰えてしまったが、動物園側は「美食の獅子」と喧伝する。どうにか餌を食べさせようとしてもどの肉も口に合わない。

すると、山岡なる新入りの獅子が生肉を持ってきた。なんたることか、その山岡の出した肉はとても美味く鮮烈で芳醇、一本線の通った肉なのだ。やっと餌が食える!と喜んでいると客達が騒いでいる。「人食い獅子だ!」「蛮獣だ!」「殺してしまえ!」の大喝采。

わたしに肉が届けられることは無くなり、かわりに毒ジャガイモが山のように置かれた。馬鹿な、肉食の獅子がジャガイモなんて食べるものか、毒が入っていることだって食べずとも匂いでわかる。しかしこのままでは飢えて死ぬことには変わりはない。私は美味しんぼを60巻も一気に読んだ事を嘆きながら究極のジャガイモを丸のみにして、巻を追うごとに可愛くなくなる栗田さんを走馬灯に観ながら事切れたのだった。

 

・でも自由って切なくないですか?

 

 

あかりさんと私と先輩と僕

このエントリーはTwitterアカウントの「あかりさんと私」( @akarisanto )に対する言及です。

「あかりさんと私」のアカウントイメージを損なう可能性があるので、それが嫌な方はブラウザバックして下さい。
「あかりさんと私」を知らない人は、そういうアカウントがあるので試しに見てみてください。人気のあるツイートを特選したのであろうモーメントを貼っておきます。
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よろしくお願いします。

以下本題

1.「先輩と僕」との出会い

皆さんは「先輩と僕」というアカウントをご存知だろうか?
このアカウントは、ラブライブの二次創作ショートショートを投稿するアカウントで、「僕」の視点で「にこ先輩」を中心とする、ラブライブの登場人物達の日常を書いた手動botだ。

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このアカウントは現在殆ど更新が停止しているが、2013年3月頃からほぼ毎日、100日の間(三ヶ月以上も!)投稿されていた。丁度ラブライブ1期が放送されている最中に活動開始した事になる。(そしてその後にも不定期ながら更新され、特に毎年の7月22日にはほぼ必ず更新されている、この日は矢澤にこの誕生日だ)
私が「先輩と僕」を見つけたのがリアルタイムだったかは覚えてはいないが、とにかく見つけた瞬間にフォローしてすぐさま全てのツイートを遡った記憶がある。
「僕」という「にこ先輩」を想っている架空の人物の視点から書かれる世界は不条理で、ユーモラスで、凄まじいセンスに溢れていた。



私はカフカ安部公房のような不条理でシュールな、それでいて何処かユーモラスな世界観が好きなのだが、それらに共通したものを「先輩と僕」から感じた。
妖怪や妖精、呪いといったファンタジーな要素が何の説明もなく日常の景色に登場したり、人物が無機物や動物に変身する超現実的なモチーフが導入されおり、その上であくまでもキャラクター達の日常的な空気を損なってはいない。そしてショートショートとして文章が破綻せず140文以内で成立している。
見事な手腕で、初めての文章体験だった。探せば類似したアカウントがあるのかも知れないが、2013年当時の私は「先輩と僕」との出会いに打ちのめされたのだった。


2.「あかりさんと私」を作る

時は経ち2018年。ふとした時に「先輩と僕」のツイートがRTされてきた。
久しぶりにツイートを読んだのだけど、依然として「先輩と僕」は面白かった。と、同時に、もう5年も前に(たまに更新されているとはいえ)活動終了してしまった事に対する、虚しさみたいなものが心に去来した。

「"先輩と僕"をもっと見たい」という感情が「あかりさんと私」を作った理由だ。

好きだった作品が突然打ち切りになってしまった時、「続いてたらどう終わったんだろう」と思う気持ちとか、連載が終了した作品のサイドストーリーや描かれなかった余白を夢想する事とか、「自分だったらこう書く」という二次創作の考えと同じように、私も「先輩と僕」の続きを勝手に書こうと思った訳だ。そもそも「先輩と僕」は「ラブライブ」の二次創作なので、「あかりさんと私」は二次創作の二次創作になる。こういうったものに名前はついているのだろうか?


3.「あかりさんと私」を始めてみての所感

・私はコンテンツを享受するだけの無産オタクで、二次創作物を作った経験、またショートショートとはいえ物語を書いた経験もほぼ無いので非常に苦労した。元である「先輩と僕」のツイートを何度か読み込み、文章の構造やポイントを確認した。

・当初の目標は1ヶ月、30tweetは続け、フォロアーを1000人獲得することとしていた。結構早い段階でフォロアー1000人を越え、今となっては「先輩と僕」より増えていて大変ありがたい(F/F比に関しては比べるべくも無いが、僕としては折角なら多くの人に見てもらいたかったので積極的に自分からフォローしていった。フォローしていただいた方々、ありがとうございます)

・100個分ショートショートのネタを考えるのは本当に辛く、本当に辛かった(本当に辛い)

・「先輩と僕」のニュアンスははほのぼのシュール日常物といった感じだが、「あかりさんと私」はサイコホラー日常物といった感じがある。
これは単純に、似た様式から異なる筆者の個性が出た結果であると思う。(ここら辺の違いを比較していた人もエゴサで数人見かけた、その通りだと思います)
前述したように「先輩と僕」はファンタジー的なモチーフを多用していたし、基本的にキャラクターを殺したり過度にシリアスな描写は避けいてる印象がある。ここがほのぼのさを保持する要因と思う。私は死も含めてユーモアとしたのでバンバンあかりさんが死んでしまったが、(次の日のツイートでは当たり前に生きて存在してるのも併せて面白いと思う)生理的に不快な表現は「先輩と僕」と同じく避けていたつもりだ。ただ、バッドエンドや寓意的な内容はカフカ等をオマージュしているのもあり、より多いと思う。

カフカ安部公房が小説としては好きだし、ツイッターではキム・ギニョン岩倉文也に書いている時ハマっていたので、要素を取り入れようと努力していた。「先輩と僕」と違い「あかりさんと私」にパワーワードの羅列ネタが多いのはここらへんも関係する。

・私はラブライブを知らないのだが、それでも「先輩と僕」は面白いと思った。同じく「あかりさんと私」のフォロアーで、ゆるゆりは知らないがツイートは面白いと言う人が散見されたのは嬉しかった。やっぱりこの様式は面白さとしての強度があると思う。

・「あかりさんと私」の版権元、元ネタを"ゆるゆり"に規定したのは、勿論、私がゆるゆりという漫画が好きな事が最大の要因だが、元がギャグテイストの1話完結型なのでショートショートの様式と相性が良いと言うのもある。
京子先輩やちなつさんというキャラは、狂言回しやオチに使いやすいキャラだし(原作のゆるゆりにおいても同じ使われ方をしているのでやっぱり便利なんだと思う)、あかりさんも弄られキャラなので、トラブルに巻き込まれたり不条理な仕打ちをされるキャラとして違和感が少なく、原作を知ってる人もイメージがしやすいのではないかと思った。

・このブログを書いている時点でフォロアーは2700人に迫ろうとしていて、結構前にアニメ放送も終了したゆるゆりという元ネタで、文字だけの二次創作botという点を鑑みれば上出来すぎる反響だと、とても満足している。
先輩と僕が更新されていた頃(もっと子細には2011年の前後)は、今とTwitterの使われ方も違っていたように思う。ネタツイートやシュールで不謹慎、ブラックなジョークがTLを埋め尽くしていて、ふぁぼったーやFavstarをチェックすれば秀逸で面白いツイートをたくさんdigる事が出来た。今はあまり不謹慎な事を呟けば自警団が飛んでくるし、ネタツイートよりも画像が伴った時事ネタや言論に関するツイートが多く、ふぁぼ文化やネタ文化も落ち着いたように思う。favstarがサービスを終了するのも象徴的だ。ある意味ではTwitterの使われ方が真面目になったなあと思う。

・自分が面白い/出来が良いと思ったツイートと、RT/いいねが多くなされるツイートは結構乖離しており、創作とは狙って出来るモノではないのだなと思った。

・かなりしつこくエゴサしてて、RTしたフォロアーの直後のツイートで言及とかされてないか結構チェックしてた。言及があると嬉しいものだ。

・RT/いいねと書いた当人との評価が特に合致し、好評だったのはコレ。内容のシュールさとあかりさんを思う「私」の情緒を両立出来るとポイントが高い。あとコレもワードチョイスが気に入っている。

99ツイート目に「あかりさんと私」の要素がすべて詰まっている様に思う。これが書けた事には大いに満足している。

・もし余裕があったら、後でこの記事に各ツイートのオマージュ元や注釈のあるものを追記したい。例えばコレ梶井基次郎の「Kの昇天」が元ネタにある。青空文庫で無料で読めて、非常に短く面白いのでオススメである。

4.この記事について
謎めいた物に対するネタばれは白けてしまってあまり良いものではない。最近ではAVのクレーム( @AVnokureemu )が自身の出演するイベントを唐突に宣伝し、その謎めいたアカウント性とのギャップも相まって顰蹙を買っていたのが記憶に新しい。「あかりさんと私」も作者不詳、意図も不詳、内容も(読む人によっては)意味不明なアカウントで、それに対するネタばらしのようなこの記事は、シラける人はシラけてしまうと思うし、私もシラけるかもしれない。
しかし、私のマニアックなオタク気質は、同時に「先輩と僕」の作者が誰なのか知りたいし、どういう意図でアカウントを作ったのか知りたいし、botを更新していた時の思いなども知りたいと思ってしまう。そして、「あかりさんと私」に対しても、そのような気持ちを持つ物好きな人が1人くらいはこの世にいると思う。この記事はその一人の為だけに書いている。なのでこの記事を「あかりさんと私」のアカウントでシェアしたり過度に話題に出したりはしないつもりだし、これを読んだ人もそういった気持ちでいて欲しい。目聡くいいね欄もチェックしているような人に対するサービスだ。


5.「先輩と僕」の作者の方へ
本当にリスペクトしています。「あかりさんと私」は「先輩と僕」のクオリティには及びもしません。センスが到底敵わなかったです。もしこの記事や「あかりさんと私」を認知して頂けましたら是非DM等で連絡頂けると幸いです。とても面白いものを書いて頂けた事に感謝を伝えたいです。


6.まとめ
私はあかりさんのことをとても大切に思っていたし、私は先輩と僕の事を大切に思っていた。
つまり、「『あかりさんと私』と『先輩と僕』と私/僕」なのである。


つまり、「『あかりさんと私』と『先輩と僕』と私/僕」なのである。ってどういう事?

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鳩羽つぐです 好きなメメントはモリ

a゜

僕たちは何回だって心が空っぽになってしまえる

dgんrヴぃd

ℒℴѵℯ...

 

誰かは分かりませんが、小説やNUMBER GIRLのDVD、ギターの弦などめっちゃ沢山送ってくださった方、ありがとうございます。ありがた過ぎてまだ何一つ読んだり使ったりできていません。

好意的な行為をなされると普通に嬉しいことが判明したので皆さんも沢山好意的な行為をして欲しい、世界が平和になる。

世界が平和になると世界が平和じゃ無くなる、世界が平和でなくてもいい権利が剥奪されます。良かったですね。

 

月ノ美兎にドハマリしてしまい、常に「委員長……いや、美兎…。」状態になっている、早く適切な機関で治療を受けたい。

 

月ノ美兎にガチ恋するのと月ノ美兎の魂にガチ恋するのではクソデカい違いがあり、自分がそのどちらであるか判別しがたい。が、それを適用すると俺は同じくのらきゃっとにガチ恋しているのかのらきゃっとの魂にガチ恋しているのかも判別できなくなっているはずだ。

のらきゃっとの中の”人”にガチ恋は間違いなくしていないが、のらきゃっとという存在を作りだしていて、その格の大幅を占めている、中の人の"人格"には間違いなく月ノ美兎の中の人の"人格"と同じく好意を抱いている。

Vtuberというコンテンツを通してその人の中身だけを純粋に鑑みることが出来るようになっている。これはとっても凄いことじゃないだろうか?俺はなにもわからないから皆さんに問いかけています。

 

小学校の卒業文にさ、「将来は立派なバーチャルユーチューバーになりたいです」って書いたんだ。でも俺はなれなかったよ、なる努力もしなかった。

小さい頃の俺は純粋で、思った事はなんだって頑張れば出来ると思ってたんだ。でも年月を重ねるたびにその純性はどんどん無くなっていって、かわりに何か、ドロドロとした黒い泥みたいなものが心の底に溜まっていったんだ。いまじゃ心の何処を掬ったってとれるのは腐った泥だけさ。

どうしてこうなっちまったんだろうなぁ……。

 

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再生の風景

悪ku夢

怖い夢を見ました。

夜、小学2年生まで住んでいた父方の実家に俺と母親の二人で住んでいる設定で、古くなって床が撓んでいるトイレに行くと、擦りガラス越しに人の影が。不法侵入者だ。とてもこわい。

ただでさえ人間はこわいものなのに夜に庭に入り込む人間なんてもっとこわい。やめてほしい。

夢の中の僕は多動衝動が先鋭化していて、擦りガラスの窓を殴って無駄に外の侵入者を威嚇した。小学生のころに押してはいけないと分かっていても消火栓のボタンを押したくなってしまう気持ちが大人になっても消えなかったということだろう。

侵入者は怒ったのか裏の勝手口の方に走り込んで来て、ノブを破壊して家の中、台所に入り込んできた。

不法侵入者はおじさん。

水色のジャージを着て無精ひげを生やし、みすぼらしい感じだが目が据わっていて、何をやらかすかわからない圧力を放っていた。片手にはぬらぬらと光る三徳包丁が握られていた。

僕とおじさんは取っ組み合いになって、どうにかおじさんを組み伏せた。大声で二階に居る母親を呼んで、早く警察を呼んで外へ逃げろと言った。

しかし夢の不条理な所が出て、母親はトロトロと反応せず、僕とおじさんの降着状態は何十分と続いた。僕はいつおじさんに反撃されるかという恐怖と、なぜ思い通りに物事が動いてくれないのかという苛立ちとが募って、なんだか泣きだしたいような気持になっていた。密着したおじさんの加齢臭が混ざった匂いが吐き気も誘っていた。

組み伏せているおじさんが横顔だけが見えるように首を捻ってこちらを見て、据わった目の焦点を僕に合わせ、口元だけ少し吊りあげて、心の底が見えない笑い方をしながら何かを喋ったのだが、それが何だったのかは覚えていない。

覚えてないけど酷く残酷で、全てを諦めてしまうような一言だった。

背中にビショビショに汗をかいて、不快感とともに目が覚めると、枕に被せているタオルケットの皺が夢で見たおじさんの横顔のように見え(または睡眠が浅く、おぼろげに見えていたタオルケットの皺からおじさんの横顔を連想していたのかもしれない)、僕は大声をあげて飛び起きた。

その皺は、瞬く間にテクスチャーがタオル時から肉のそれへと変わって、ムクムクと盛り上がり、夢で見たおじさんになった。

一方僕は無力なぬいぐるみに変身していて、自分の力では動くこともままならない。

おじさんはぬいぐるみの僕に何度も何度も包丁を突き立てて、そのたびに綿が中から飛び出した。その綿は部屋を埋め尽くし、これ以上ないほどの密度を得ると、一点に集約してちいさな飴玉になり、床に転がった。

おじさんはそれを拾って口の中へ放り、コロコロと口の中で転がした後、奥の歯でガリっと噛み砕き、そこで僕の意識は消失した。

おじさんは残ったぬいぐるみの皮で包丁を包み、そっとへやを出て行った。

壁 (新潮文庫)

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・先週末は京都に行ってきた。

親の観光についていくついでにZAZENBOYSのライブを見に行くという名目だったが、親が行けなくなり、しかしキャンセル料はもったいないので一人旅となった。

1日目は一瞬複素数太郎とデートしたのちザゼンをみて、2日目は京都の伏見稲荷やら金閣銀閣やら清水寺やらメジャーなところを周り、3日目は大阪の治安の悪さをみてはんなりしながら粉物を食べて帰ってきた。

一人で居る時には基本酒は飲まないのだけど、新幹線という周りを他者で囲まれた空間でじっと座り続けなければならないという状態にADHDの僕は発狂しそうになったのでアルコールが5%含有された液体を摂取して曖昧になることでどうにか発狂せずに済んだ、昼間から外で酒を飲むというのは退廃的で死にたくなったが呑んでいる人の気持ちもわかるようになった気がした。気がしただけです。

ザゼンボーイズは今まで見たバンドの中で一番グルーブが強くて、キメ、溜め、間の置き方、ブレイクがすべて完ぺきで脳に良い体験だった。ベースの吉田一郎が脱退する前最後のワンマンだったのだけれど、やっぱり彼のベースは最高で、とくにcold beatという曲のフレージングは圧倒的で涙腺が潤むようだった。もう新しいベース探さないで解散しても良いのかもしれない。

京都めぐりは親の行きたいところを同伴するつもりだったので本当に何も計画を立てていなかったのだけど、とりあえず定番どころをめぐった。観光地はバスがよく出ていたので発達が障害していても目的地にたどり着けて良かった。今回の旅行の一番の成果は公共交通機関による失敗をせずに観光できたという達成感を得られたことかもしれない。普通の人は普通にできることです、良かったですね。

なんだかんだ楽しく旅行をしたのだけど帰りの新幹線に乗っているときからまた生活が再開されることを考えてしまい鬱病になり、帰ってきたその日から嫌なことが立て続けに3連続ぐらい起きたので完全に終了してしまいました。僕はいま完全に終了しています。わかりますか?

・人肉ねばねば基礎代謝

ザゼンボーイズのライブのニュアンスを一番感じられる動画がこれです。cold beatだけでいいから聴いてほしい。本当に良いベースでした。

ZAZEN BOYS_I DON'T WANNA BE WITH YOU/THE DRIFTING~KIMOCHI~COLD BEAT by neetsan 音楽/動画 - ニコニコ動画

すとーりーず