ダリフラ最終回への雑感 -ダーリン・イン・ザ・フランキスはセカイ系だったのか?-

1.要点

ダーリン・イン・ザ・フランキスを最終回まで見たが正直面白くなかった。何故面白く感じなかったのか?(正直、脚本構成諸々色んな要素で問題要素があったのだが、そこは触れない)

ダリフラの作品コンセプトとしてパッとイメージされるのは「セカイ系」だが、思春期男女の「群像劇」も同時にコンセプトに組み込まれている。

セカイ系」と「青春群像劇」はクッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッソ相性が悪い、と思ったので、それについて書く。

 

2.注意

ネタバレっぽい事も書きます。

ダリフラを見返して詳細に分析するの苦痛なので雰囲気で全部書きます、あんまり真面目に読まないで欲しい。

セカイ系」と「群像劇」というワードを用いて書きます。

セカイ系」はエヴァなるたる、ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ、最終兵器彼女などの"君と僕"の関係や物語が社会や他の人間関係を介さず、世界の顛末に直結する、一般的な「セカイ系」のイメージ。

「群像劇」は大分ざっくりしているけど、主人公以外の人物にも焦点を当てて人間関係や恋愛と言った機微を重視して物語が展開していくモノをイメージしています。とらドラ3月のライオンP.A.WORKSのお仕事シリーズなどが僕の見たことある作品の中からのイメージです。

 

以下、本編。

 

3.セカイ系ダリフラ

ダリフラはTRIGGERとA-1 Pictures共同制作で、TRIGGERはエヴァを作ったガイナックスのスタッフが独立した会社である。そのため、ダリフラにもガイナックス系アニメからの影響やオマージュが随所に見受けられる。

セリフ回しや設定がまんまエヴァからの引用だったりもする。ゼーレとエイプのセカイを操る陰謀組織という構図が一緒だったり、宇宙に飛び出し地球外生命体と戦うのはトップをねらえ!が元にある。戦いの規模がクソデカくなっていくのはお家芸である。ここら辺の元ネタ、オマージュは挙げたらキリがない。

それらオマージュ元の一つ、新世紀エヴァンゲリオンは何と言っても「セカイ系」の代表格である。

エヴァがシンジくん(僕)とヒロイン(君)の、閉じたセカイ、狭い物語を中心としているのと同様に、ダリフラでは主人公のヒロとヒロインのゼロツーの関係性がメインの物語を形作っていく。最終回でヒロとゼロツーは仲間たちと別れ宇宙を旅し戦い、敵と相討ちになる。客観的に見れば「世界を救ったかわりに主人公達が命を落としたバッドエンド」だが、「ヒロとゼロツーが互いを愛し合い敵を倒した」という二人の閉じた主観としてなら、まぎれも無いハッピーエンドと見れる。

あくまで、”君と僕”の閉じた世界の中での物語を問うのがセカイ系的な見方である。これが「セカイ系」としてのダリフラの見方になる。

 

4.群像劇のダリフラ

A-1 Picturesという会社の作風を僕はあんまり把握できていないが、ダリフラに強い違和感があるのはこちらの要素がセカイ系と相性が悪かったからだと推測している(逆の言い方もできる。A-1 Picturesの作風にセカイ系は相性が悪い。)

ダリフラは、一般的なセカイ系と言われる上記3の作風に加え、ゼロツーとヒロ以外の登場人物の恋愛感情、共同生活内での人間関係を掘り込んで描かれていた。イチゴのヒロへの恋愛感情(青髪負けヒロインの正史が更新され、その点は本当に良かった)、ココロの心の揺らぎ(絶対脚本家は悪意がある、おやじギャグをやめろ)、出産、フトシのネトラレ、不憫なゴロー(イチゴは負けヒロインだがゴローは何と呼べばいいんだろう、負け竿役?)、イクノの性的少数者的視点(イクノのエピソードが作中で深く扱われず軽く流されている様に思われるのは無意識な差別なのか、炎上しないようビビったのか…)、etc…

こういった作風を何と呼べばいいのか正確には分からないが、思春期男女の群像劇という認識で大体あってると思う。これら「群像劇」は、「セカイ系」では敢えて深く描かれない他者、社会との関係性がピックアップされる。作品を捉える際の視点に、大きく他者とその関係性が介入されるのである。

さて、一つの作品に「"君と僕"の閉じた視点」と「他者との関わりを広く持った客観的な視点」との両方を取り入れるとどうなるのか?それは最終回を見たとおり、シラけるのである。

 

5.「セカイ系」視点からの群像

セカイ系は究極的には世界が滅んでも構わない。あくまで“君と僕”の問題が全てになる。ヒロとゼロツーが互いに愛し合い、共に溶け合って敵を打ち倒そうとしたという事実がある時点で、セカイ系としてはハッピーエンドになる。もし最終回で二人が死んだ後、残党のビルムが地球を滅ぼしたとしても、セカイ系的な視点では二人のハッピーエンドは揺るがないのである。

セカイ系の視点でダリフラ最終回を見るとき、一番気になったのが、ビルムに最後の攻撃をし、二人が消えていくという独白のシーンで、ヒロが「歩んできたこの道は消えない。皆が繋いでくれるから」というセリフである。このセリフは、セカイ系の視点から見ると、”君と僕”との物語のいよいよ最後、愛し合う二人の終わりというクライマックスで、「君と僕の閉じた世界での完結したハッピーエンド」ではなく、「他者の存在による二人の価値の担保」を口走っているのである。これはセカイ系セカイ系たる約束を破ってしまっている。自分達の物語の価値を自分たち以外に仮託してしまっている。このセリフを吐いた時点で、ヒロはセカイ系の”僕”である資格を失ってしまっているのである。そういった意味ではチームの仲間を眼中に入れず、自分とダーリンの関係性のみを重視していたゼロツーこそセカイ系の”僕”たる資格がある。ナヨナヨしてないしヒロインなのでイメージと逆行しているが、実は制作者側の意図としては、セカイ系の視点での”僕”はゼロツーとして設定しているがゆえに、一人称も「僕」なのかもしれない。

他にもセカイ系視点で見ればヒロとゼロツーが消えた後の地球でのエピローグは、セカイ系の視点からは全くの蛇足であるし、様々な部分でセカイ系としてダリフラを見るには、あまりにも他者が入り込み過ぎてしまっている。これでは視聴者が”君と僕”のセカイに没入して見ようとしても、ある種の外部からの視点がチラチラと入り込んで、結果としてシラけてしまう。

セカイ系は閉じた自己認識のセカイを描けばそれだけ強度が高くなるから、他者の多く入り込んだダリフラセカイ系としての強度が弱くなってしまっているのだ。

 

6.「群像」からの”君と僕”

今度はイチゴやココロと言った群像側から最終回を見る。ビルムにやられ、危機に陥ったストレリチア真・アパスを救ったのは何か?それはなんと”地球からの祈り”だった。地球からの祈りを受けて二人は覚醒し、ビルムを屠るのであった。(このシーンは本当に共感性羞恥を誘って死ぬかと思った)

このシーンが「セカイ系」と「群像劇」の相性の悪さを端的に物語っているように思える。”君と僕”という閉じたセカイの二人の戦いに、イチゴやココロの地球で待つ他者たちをどう関わらせようか、製作者たちはアレコレ考えたのだと思う。しかし、いい案が出ず、苦肉の策として「地球からの祈りが届き二人を救う」なんて薄ら寒い奇跡を起こさせてしまったのである。

主人公とヒロインというセカイ系物語の主軸が宇宙へ旅立ち残された群像を、一方でダリフラが「群像劇」として描いていたがゆえに、両者の物語が途中で分断されないように、もう一方の”主役”として最後の戦いに関わらせなければいけなかった。しかし、”君と僕”が閉じたセカイで戦っているその構造のために容易に群像は関われない。その苦肉の策で「祈り」が二人を救う結果になった。この無理矢理な他者の介入は”君と僕”の物語の強度を著しく下げたし、群像の戦いへの関わり方としても滑稽でシュールだ。

物語のクライマックスの戦いが”君と僕”によってのみ行われるという脚本を書いた時点で、「群像劇の主人公」たちは構造的に非主人公に堕落させられてしまうのである。

 

7.まとめ

再三書いたように「セカイ系」は君と僕という閉じたセカイでの物語を突き詰めるほど強度が増していく。逆に「群像劇」は広く人間関係と他者の掘り下げをしないといけない。”君と僕”以外の他者を掘りさげれば掘り下げるほど、"君と僕"のセカイの強度は下がっていく。さらに二つの視点が混合されるせいで視聴者が没入できずシラける。ダリフラはストーリーの前半はヒロとゼロツーのセカイ、その他の群像であるキャラ達の関係と心理を掘りさげ、そのどちらをも主人公として描けていたが、最終回付近のクライマックスにおいて両立が(構造的な部分が多くを占める形で)出来ず、破綻してしまったと考えられる。

 

8.補足、ダリフラと「私を離さないで」

ダリフラ最終回のサブタイトルは、カズオイシグロの小説「私を離さないで」から取られている。(ガイナックスの作品はSF小説のタイトルを最終回のサブタイトルに付ける慣例がある)

この小説は、臓器提供用のクローンとして作られた少年少女達が、大人達に管理された施設内という閉じたコミュニティでの恋愛や葛藤など、人間関係を主軸に描いた作品で、最終的には臓器提供によって死ぬしかない、臓器提供の猶予を求めてもそれは認められず、決められた規範から逃れられない(ダリフラで言う「パパの言う事は絶対」)など、共通点が多い。

僕は「私を離さないで」を5年くらい前に読んだ。詳細はもう覚えてないが、ダリフラと比較してより「セカイ」の強度があるのは「私を離さないで」だと思う。

「私を離さないで」は主人公の「私」からだけの視点で物語が描かれていた。たとえ小説の内容が閉じたコミュニティでの少年少女達の人間関係だとしても、その語り部は”私”であり、私の自己意識によるセカイが一貫して描かれているからである。アニメであるダリフラを僕達視聴者が見るとき、それはある空想のカメラからダリフラの世界を映して観ている事になる。だからこそ小説よりも世界を捉える"視点"をどう統一させるかが重要になるのである。もしダリフラを小説にしたら、語り部は1章ごとにヒロになったりココロになったりイチゴになったりコロコロ変わり、読者はどの視点から一つの小説を読解すればいいか混乱するだろう。しかも、最後の章は全員が全員の視点からそれぞれの主観の視点でクライマックスを迎えるよう同時並行で書かないといけないのである。脚本の時点ではあくまで一点の"僕"から見たセカイとして、ダリフラの物語を書いたのかもしれないが、アニメというメディアでは、あまりにも”僕”が拡散されてしまっていたのがとても残念だ。

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)